6月10日(日)
京都駅前のメルパルクホール

三十三間堂妙法院主催「第11回仏教文化講座」

「お坊さんも知らない仏像のおはなし そおやったんか!」

 


「お坊さんも知らないホトケの話」
籔内佐斗司
彫刻家・東京藝術大学大学院教授(文化財保存学)

 

はじめに
 「お釈迦さまが始めた仏教なのに、お寺には釈迦像ではなく、それ以外の仏像がたくさん並んでいるのはなぜですか?」仏像の話をしているとこんな質問を頂きますが、その答えは簡単です。日本の仏教が大乗仏教だからです。
 仏教は、大きく上座部仏教と大乗仏教に分けられます。2500年前のゴータマ・シッダールタという人が、世俗を離れ、修行と瞑想の末に見極めた「この世の究極の法則(ダルマ)」がもとになっているのが仏教です。しかし彼の死後に、釈迦在世中の教団を理想とする上座部系と、革新的な若手信者のグループである大衆部の二派に教団が分裂してしまい、それが上座部仏教と大乗仏教へと発展していきました。ですから、釈迦の教えにより近いのは上座部仏教であり、大乗仏教は彼の教えをベースにしながらも、さまざまな宗教や文化を積み重ねていったものです。6〜8世紀に中国という巨大な溜め池を通って日本に流れ込んだ大乗仏教は平城京ですっかり定着し、その後、平安時代の初めに最澄が広めた観音信仰や、空海が広めた真言密教、また平安時代末の阿弥陀信仰、鎌倉時代の禅宗などが花開きましたが、それらはすべてお釈迦さまが直接説かれた仏教ではありません。

世界的宗教と人倫の発生
 悠久の歴史を持つ古代エジプト王朝にも、優れた政治家や科学者とともに偉大な宗教者や思想家がいたことは間違いないと思いますが、現代までその系譜を引き継いでいる文化はなく、文明史的には断絶しています。しかしメソポタミア文明の余韻を引く古代ペルシアにいたとされる謎の宗教者ザラスシュトラ(英名・ゾロアスター、紀元前15〜7C?)は、その後の世界の宗教や文化に大きな影響を与えました。彼は、古代イラン人(アーリア人)に伝承されていた神話的文書をアヴェスターとして集大成し、至高の光明神アフラ・マツダー(阿修羅)が暗黒の大魔神アンラ・マンユを調伏するという「絶対的善」を説きました。このゾロアスター教はアケメネス朝ペルシア(前6〜4C)以来絶大な信仰を集め、ササン朝ペルシア(3〜7C)では国教となり、ローマや唐の長安にも広がり、祆教や拝火教と呼ばれました。善と悪の抗争と善の最終的勝利を説く教義は、その後のユダヤ教、キリスト教、イスラムなどの一神教の成立に大きな影響を与えたと考えられ、ほとんどの宗教の教義に影響を及ぼしていると思われます。これ以降、人類は「欲望」に基づく弱肉強食の論理ではなく、「善」や「慈愛」に基づく文明的秩序について考えるようになりました。「自分が望むことを、他者に施せ。自分が望まないことを、他者にしてはならない」という人倫は、ほぼすべての宗教や哲学に共通して語られています。これこそが勧善懲悪の原点でありながら、未だに人類が達成できていないことです。善なる神は光明で、邪悪なる大魔王は暗黒という構図は、このゾロアスター教に起源を持っています。大乗仏教が説く光明仏である観音菩薩(アヴァロキテーシュヴァラ)や華厳経の毘盧舎那(ヴィルシャーナ)、密教の大日如来(マハー・ヴァイローチャナ)の原像を、アフラ・マツダー(阿修羅)と関連づけて考える宗教学者もいます。千体の十一面観音群像が並ぶ三十三間堂は、まさに光明のお堂そのものです。

六師外道と釈迦
 釈迦が生まれた前5C頃は、現代まで影響を及ぼす優れた思想家や宗教者が世界各地で輩出した時期でした。道教を集大成した老子、儒教を説いた孔子、「不可知論」を唱えたソクラテス、「イデア(徳)」を説いたプラトンなど、300年ほどの間に集中して誕生しています。また、「旧約聖書」の成立も、アケメネス朝が中東を支配していた前5〜4世紀頃です。
 自然界の法則「天道」を説いたのが老子。人の秩序「仁」を説いたのは孔子。西欧哲学の基礎を打ち立てたソクラテスやプラトン。そして紀元前5世紀頃のインドも、高度な哲学が発展した時代でした。その流れのなかなら「仏法」を説いたのが釈迦でした。私たち人類は、彼らの教えによって、欲を行動原理とする「未開人」から、ようやく善や理性に基づいて行動しようとする「文明人」になれたのです。
 前6世紀頃のインドでは、アーリア(古代イラン)人の神話を集めたヴェーダ経典に基づくバラモン教が支配していました。輪廻転生を背景に、現世の善行が来世でのよりよい再生をもたらすと説きました。これは、侵略民族アーリア人が先住民族のドラヴィダ人を支配するカースト制度の維持に貢献しました。しかしインドに戦国時代が訪れ、カースト社会が揺らぎ始めるとともに、バラモン(司祭階級)やクシャトリア(王族階級)の権威が低下し、そこから離脱して出家修行者となり、身分制度から解き放たれて自由に思索を始めるひとたちが現れました。そして庶民階級(バイシャ)や奴隷階級(スードラ)のなかから富を蓄える者も現れ、修行者たちを経済的に支えました。釈迦にやや先行する時代には、六人の優れた思想家が輩出し、それぞれが学派を形成していました。のちに「六師外道」と呼ばれた彼らは、事象・現象の生成変化を分析し、霊魂や形而上の作用を突き詰めました。とりわけ「空・シューニャ」についての思索はインド思想の特徴といえ、「空」が数学の「0」の発見へと発展したことは特筆すべきことです。以上のことから、釈迦の思想が忽然と現れたのではなく、時代の大きなうねりの中から誕生したことがわかります。

釈迦の生涯
 釈迦は、前5世紀頃、今のネパール近郊で生まれました。世は戦国時代です。彼は、王族として育ち、結婚もし子どもももうけましたが、生きもののさまざまな苦悩を目にし、思い煩うようになりました。そしてついに城を出奔し出家して、数人の修行者の許で学びますが、すぐに師のレベルに到達し、人から知識を学ぶことを諦めました。次ぎに、山の中に入り自らの肉体を究極まで痛めつけて死の直前までいくような6年間の地獄を経験しますが、やはりダルマを見つけることはできませんでした。
 彼は苦行林を後にし、村娘に供養された乳がゆで元気を回復して、坐禅を組み深い瞑想に入りました。すると、釈迦の深層心理から湧き出てきた邪念・マーラ(悪鬼・夜叉)が瞑想を妨げました。しかし、彼はそのすべてのマーラを調伏し、ついにこの世のダルマを悟り、涅槃の境地に入りました。三十三間堂に祀られているバラモン教の神々や二十八部衆は、釈迦に調伏されて護法善神となった悪鬼・夜叉たちです。釈迦は涅槃の境地があまりにも幸福だったために、このまま生を終えようとしたとき、忽然と釈迦の目の前にバラモン教の最高神ブラフマン(梵天)が顕れて、一介の人間に過ぎない釈迦に、仏法を説いて衆生の苦悩を救うように懇請しました。これを仏伝では「梵天勧請」といい、仏教がバラモン教を超えた逸話として重要視します。そして釈迦はこの後45年間の説法の旅に出て、80歳で大往生(大涅槃)しました。釈迦の生涯を600字程度にまとめるとこんな感じです。
 当時のクシャトリアやバイシャは、学生期・家住期・林住期・遊行期という四住期というライフスタイルを理想としていました。学生期は、宗教や学問を学ぶ時期。家住期は、家業に勤しみ、財産を蓄える時期。林住期は、財産や家督を家族に譲り、林のなかで精神修養に励む時期。遊行期は、ひとびとから施しを受けながら遊行の旅を続け、安楽な死を迎えて、来世の幸せな転生を願ったのです。バラモン社会を批判し、カースト制度から出奔した釈迦でしたが、彼の生涯はこの四住期にぴったりと符合します。

ほとけの呼称
 のちに釈迦と呼ばれるようになった人物の本名は、ゴータマ・シッダールタといいます。中国で悉達太子、瞿曇沙弥(ぐどんしゃみ)などと表記されました。ゴータマを音訳して瞿曇、沙弥は見習い修行者のことです。
 釈迦は、彼個人の名称ではなく、彼が属したシャカー族から来ています。シャカ族の尊い人という意味でシャカムニ、それを漢訳して釈迦牟尼、その尊者の意味で釈尊、この世の尊者として世尊。
 自由思想家たちが活躍していた時代、この世のダルマを見極めたひとをブッダと呼び、中国で音訳して仏陀、意訳して覚者。仏伝では、悠久の昔に最初のブッダとなった毘婆尸(びばしぶつ)仏以来六人の覚者がいたとされ、釈迦は七番目のブッダになります。そして彼を含めて歴代のブッダを「過去七仏」とも呼びます。薬師如来は、東のはるか彼方の7番目の浄土の教主とされますが、最初のブッダである毘婆尸仏を含む過去七仏と符合します。マイトレーヤ(ミトラ、弥勒)は八番目のブッダとなるために兜率天で瞑想しています。
 釈迦が見極めたこの世の真理・ダルマを、漢訳して法。ダルマを知ることをパンニャー(般若)といい、智慧と訳されました。智慧に到る修行の道筋をパーラミター(波羅蜜多)。修行しているひと、即ちボーディ(悟り、菩提)を求めているサットヴァ(ひと、薩埵)で、ボーディ・サットヴァ(菩提薩埵)、略して「菩薩」。したがって、「般若波羅蜜多心経」とは「智慧に至る道筋を示す最も重要な経典」という意味になります。       
 ダルマを知った境地をタタ、漢訳して「如・真如」。すべての煩悩を滅してタタへ去った者をタター・ガタ、漢訳して「如去」。ダルマを知ってタタより来たった者をタタ・アガタ、漢訳して「如来」。この二つを合わせて「如去・如来」、省略して「如来」。西洋の古楽器チェンバロが音に強弱をつけられる鍵盤楽器に進化してピアノ・フォルテと呼ばれたのが、いつしかピアノと略称されたのと似ています。
 仏陀を、中国の儒者達が侮蔑的な意味を込めて浮図・浮屠とも表記し、それが百済を経てわが国に入って、浮屠の気配→フトの気→ホトケ!
 やっぱり呼び方だけでも、ホトケは奥が深いですね。


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